根本寺由緒
当山は山号を塚原山とし、全国日蓮宗十大霊跡に列す。
昔佐渡国仲村一円の死人の捨て場であったと伝う(大凡七百年前)日蓮聖人、御歳五十歳、最後の法難が佐渡であり、文永八年(1271年)十一月一日より翌九年四月半ばに到る迄、住まわれたる聖跡にして、同九年二月には聖人生涯中の一大事と申すべき開目鈔を御著書なされた霊跡である。
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本堂


十二間九間総檜造
寛文十二年(一六七二)浄信院日行上人の創建
明治三十八年(一九〇五)観中院日静上人屋根を改めて瓦葺とする
令和三年第五十三世日𣴎代に改修する
日蓮聖人銅像

この日蓮聖人銅像は、大聖人700遠忌(昭和58年)の折、当山壇徒土屋辰治、雪枝夫妻の寄進により建立致しました。参拝者の皆様方に大聖人の前で合掌して頂きたいと発願されました。尚、両津港に程近い所に建立した佐渡日蓮聖人大銅像(日本最大)の土地も土屋夫妻の寄進によるものであります。
第五十世日浄代
三昧堂(さんまいどう)


五間四面
慶長年間(一五九六)栴檀院日衍上人 祖師堂を移してより舊地にはただの塚を築いて未だ堂宇の建立なかりき
天保年間(一八三一~)徳川第十一代将軍家斉が還暦の寿を祝し併せて除厄の為に祖像一軀を彫刻し天保四年五月十三日当山に安置祈願する
時に妙感尼なるもの三昧堂を建立して尊像を安置せんと発起し 天保五年(一八三五)志を得て一堂成就す
阿美代の方 法号を妙操院性月良仁大姉と号し、天保三年に没す
戒壇塚

宗祖謫居の当年 三昧堂舊趾に祖師堂移転の後土を築きて戒壇塚又は経塚と称す
文永九年佛誕日の夜半 最蓮房日浄上人が此地において本門大戒を受戒せられたる塚也
祖師堂

五間四面総檜造
天文二十一年(一五五二)大泉坊日成上人の創業により斯堂の建立
その後七十年を経て元和年間(一六一五~)栴檀院日衍上人の檀越味方氏の外護を得て現今の布金壇上に再建
天保年間日凰上人瓦屋根吹替え改修
布金壇
昔 当地 地窮巷卑湿にて伽藍建立に適さなかった為に慶長年間(一五九六~)に現今の地に金と土を交換して丘陵とする
須達長者が祇園精舎を造営する故事に因んで布金壇と名付ける也
千佛堂

六間四間半
寛永元年(一六二四)日衍上人味方氏の外護を受けて創建
明治三十五年日静上人再建
鐘堂

元和七年(一六二一)日衍上人 味方氏の資助を得て梵鐘を鋳造
鐘堂は宝暦元年(一七五一)第二十七世日遙上人改築
現梵鐘は昭和五十五年第四十六世日汪上人代に鋳造
以前の梵鐘は宝物館に移転保管する也
二天門


宝暦元年(一七五一)第二十七世日遙上人創建
慶應年間第三十九世日宣上人瓦葺き改修
平成大改修にて第五十世日浄上人瓦改修
仁王門

寛永三年(一六二六)当山第十三世栴檀院日衍上人造営
明治二十一年日敬上人瓦改修
第五十世日浄上人平成八年台風災害にて改修
水子地蔵

当山第五十世 日浄代
当山参詣中の方々の水子の霊位を供養の為建立
妙見堂

当山の鬼門の方角に当堂を祀る。
太鼓堂

二間半、二間
当山第三十四世佛性院日禮上人在山中 越前の講中より大太鼓を寄付
水牛の皮を用い島内唯一の太鼓と言われ第五十世代に皮を張替える也
お堂は天保年間に建立
芭蕉句碑

佐渡島内に芭蕉を偲んだ句碑が八句あり
一番古い句碑 芭蕉没後壱〇〇年に追悼として建立
春もやや 景色ととのう 梅と月
犬塚

出世稲荷堂
